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木の花幼稚園

2023年度 保護者会総会によせて…

木の花はお陰様で118歳になりました。

この創立記念日はその取り組みの中で、ちょっと子どもたち(特に年長さん)が歴史を紐解く(考える)、恒例の一コマとも言えます。今年もまつくりさんが「木の花おもしろ事典」を作る過程で、数人の子どもたちが木の花幼稚園の初代園長、長實子さんのことを調べに資料室やあゆどんのところに訊きに来たり・・・。


資料室には開園当時の子どもたちと長園長やスタッフの写真や卒園証書を懐に持つ卒園生、あるいは長實子さんの石膏像もあり、実際の人物像と共に銅像のほうにも興味惹かれたようです。(「白い實子さんが見たい…」とその後も子どもたちが資料室へ覗きに・・・。)


現存する日本最古の幼稚園は、お茶の水大学付属幼稚園で創立は明治9年(1876年)。以後、全国に少しずつ幼稚園は増えていきますが、木の花は明治38年(1905年)の6月11日の創立です。金沢市内では金沢大学付属幼稚園、キリスト教の北陸学院大付属第一幼稚園に次いで3番目に古い幼稚園になります。この二つの園は後年共に移転してしまいましたが、木の花は開園当初からその場所が変わらずにあり続けています(なので昔からの資料、備品、遊具等がしっかり残され、これまでも多くの研究者が訪問したり、土浦や東京など各地の幼児教育関連の展覧会等に昔の遊具等を出展しています!)。こうした大学などの付属幼稚園でもなく、宗教園でもなく、創設者(オーナー)の世襲で続いている園でもないこと(初代長園長の次は第一高等女学校の松宮校長が2代目に、大正2年に財団法人化した時の理事長は長家の当主基連さん…實子さんのご養子さん…でしたが、その後歴代理事長は理事の中からの互選です)、このような園は金沢市内はもとより、県内にもなく全国的にも相当珍しい園だと思われます。


子どもたちを支える大人達の系譜・・・

 木々や果樹を大事に子どもたちの育ちの身の回りに配置する自然環境は武家屋敷由来により、今が旬のブルーベリーやイチゴなどの菜園も内容は違いますが明治期から続いています。キャットウォークや遊具庫、ベランダなどの小部屋や動線の繋がり、「隠れ家」的な造りも武家屋敷の多彩な部屋の造りを受け継ぎ、子どもらしい空間を活用した遊びを継承しています。

 そんな遊びの創造性を拡げる保育、環境をつないできたのは、子どもから子どもへ・・・と共に、これまでの保育者+αの周囲の大人たちです。開園当初の明治、大正期は創立者の長園長の周りに集まった仏教婦人会などの知識人女性たち(高等女学校の卒園生などが保母に・・・)。昭和期になって卒園生たちが大人になり、様々な形で園の運営や保育に寄与していきます(模型を作ったり、映写機を持ち込んだり、運動会の運営を支えたり、同窓会を自主的に開いて花見や遠足を企画したり等々)。そして昭和の後半、園児数減少で閉園の危機が叫ばれた頃(学校法人の理事会で閉園について議論)、同窓生に代わって園を担うようになったのは当時の保護者達でした…。


危機に際して母たちが立つ・・・

 「バザーをして稼いで遊具を買おう・・・」と母たちがバザーを始めたり、毎日がお弁当であった当時、理事長と直接交渉して外注搬入の給食導入のきっかけを作ったり、さらに「わたしたちも作るから」と保護者会クッキングを始めたり、お芋畑を地域でみつけて芋ほり遠足が始まったり、当時の園長先生がお茶の師範なので母たちの依頼で年長児のお茶が始まったり・・・。お泊り保育、夕涼み会、誕生会やクリスマス会など今に続く行事の大半がこの時期に保護者たちの提案と対話、協力のもとに生まれています。

 

子どもから子どもへと遊びの文化を繋いできたように、閉園という危機の際に親たちの主体的な発想と行動力で、閉園を乗り越え、保育の枠組み、生活の在り方を拡げ、「大人の参画」という園の保育文化を再生、時代に見合うようブラッシュアップしてきました。明治以来の母の会から保護者会に名前を変えて、今日まで創造的に発展して保護者会は引き継がれています。

 園児数が30人前後の少ない時代は保護者会も役員さんが役員、バザー、クッキングなどすべて担っていましたが、園児数が増えるにつれて、バザー委員、クッキング委員、写真係など分かれて分担するようになりました。(さらに子ども園になり、夕涼み係、発表会係など新たな係を新設したり、一方でリサイクル委員や畑係、謝恩会係等、消滅したりした係などもあります)。このような自主自立的な保護者会の在りようも今日の幼児教育・保育施設ではとても珍しくなりました(保護者会がない園、あっても形式的な園がどんどん増えています)。

 幼児教育の豊かさのポイントの一つはその周辺の大人の存在の在りようです。子どもたち一人一人の育ちを我が事(我が家)のように喜び合える親同士の関係性の豊かさが、子どもたちの育ちの安心・安定の土台になり、その子の可能性の「裾野」を拡げていることは間違いありません。100年以上同じ土地で園バスを持たずに幼稚園を続けてきた原動力の一つには関係者や卒園生、そして今は家庭の方々の想いが基盤にあります。


子ども受難の現代・・・

 現代はAIによるチャットGPTなど便利な時代かもしれませんが、子どもの置かれた状況は深刻に感じます。新型コロナはじめ感染症クライシス、亜熱帯化しつつある猛暑といいゲリラ豪雨(つい最近も線状降水帯での大雨で紀伊半島、東海、関東に大きな被害が出ました)に巨大台風などの気候変動に伴う自然災害はもう異常ではなく日常になりつつあります(珠洲の大地震も然り)。また保育園のお散歩途中や小学生の登下校時での交通事故や通園バスでの園児置き去り、児童虐待と変わらない「不適切保育」など衝撃的な事故・事件も次々に明るみに、子どもの安心・安全をどう担保して保育を行っていくのか?そうした事故・事件への対応がさらに機器による「安全管理」とチェックリスト・・という方向性がますます強まり子どもの生活をさらに窮屈にする、息苦しさを感じ、本当に悩ましい時代状況、世相に気分が重たくなります(世界に目を向ければ戦争がホントに身近になりつつある危惧も・・・)。 

 そしてコロナ禍の3年間で小中高校の自殺者数は増加、学童の自殺者数は過去最高とか。自殺の低年齢化に拍車がかかっていて、自らの未来に希望を描けない子どもたちの増加は、今の日本社会の在りように大きな警鐘を鳴らしている、と感じているところです。


多様な子どもたちが育つ系譜、土壌・・・

 子ども園生活も5年目になり、1,2歳の小さい子が混ざる生活への慣れも子どもたちの姿から感じるようになりました。以上児の生活母体としての本園と未満児さんのぐみぐみはうすと生活拠点を別にすることで、それぞれの安心・安定感を担保し、園庭を挟んで互いの生活が見える(感じる)場にあることで、3歳以上児は小さい子を意識し、一方ぐみちゃんたちは大きいお兄ちゃん、お姉ちゃんの遊び、活動に憧れを持ち、以上児の遊びや活動の様子をしっかり眺めて体感(創立記念日も2階から2歳ぐみちゃんたちが観戦・・・)。


 これまた歴史を振り返れば満3歳を迎える前の2歳児はずっと昔から園に存在していました(きょうだいや地域の諸事情で預かるケース)。ちなみに昔は6歳児も在園していました。就学猶予で学校やるにはまだ早いしもう1年預かってもらえる?という感じで子どもの育ち、家庭の実情に応じた6歳児就園を認めていたようです。多様な子どものたちが共に育つインクルーシブな生活も昭和の初めの時期の保育日誌にも伺えます。2歳から7歳までの色々な子どもたちが集う園生活・・・という実態が明治から昭和の半ばまで続いていました。そんな異年齢を含めた多様性のある園生活をDNAとしては持っているのが木の花です。他園を調べたわけではありませんが、こうした点も木の花は全国的にも珍しいのではないでしょうか?


アフターコロナを見据えて・・・

 昨今の社会情勢に加えて子ども園になり、働く母が増えて保護者会の担い手がいなくなるのでは?と危惧する声もあります。昨年度、行事の日程も土曜日への変更への要望も聞き、こうした声も受け止めつつ、夕涼み会を今年度、土曜日開催として試みます。保護者会活動のみならず父レクや親子レク、サークル活動や多様な親御さんがそれぞれ何か出来るような仕掛けをこれからもお家の方々と共に考えていきたいし、コロナアフターの園生活を見据えた新時代の保護者会もまたお家の方々と共に考えていければ・・・と願っています。


 一人一人の子どもがその子らしく育っていく園生活、個性あふれる発想、それぞれの感性が響き合い、一人一人に出番が子どもにも大人にもある木の花暮らし。保護者会においても様々な保護者の方が参画できる場であり続けてほしいと願い、また多様な子どもたちが共に育つ環境を周りから見守り、色々な大人たちの「手」で一人一人の子どもたちの「背中」を支え、時には挑戦しようとするその「背中」をそっと押してあげられる、みんなでみんなの子育てを共育できる場を、より今の時代に見合うように作っていければ、と願っています。


 ここで育つ子どもたちが、一人一人が新しい時代を切り拓き、寛容性のある希望の持てる平和で持続可能な社会を築く担い手になることを信じて、今後も木の花応援団の役員、各係を始め、お家の方々の皆様、木の花の保育、園運営にご理解、ご協力をよろしくお願い致します。

                           あゆどん(談 加筆修正 記) 

                                  

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